ドキドキとまだせわしなく心臓が動いている。きっと顔はまだ赤いだろうな。 まったく、さっきの桃子先輩の行動にはびっくりした。 いきなりチャック下ろそうとしたり、ボタンを取っていったり。 しかも、俺の恋人だったっていうし。 これで栞菜ちゃん、愛理ちゃん、ちぃ、雅ちゃんと桃子先輩で五人目だ。 ちょっと前の俺はどんな高校生活を送っていたのかちょっと疑問に思う。 こんな普通っていうよりちょっと地味な俺がなんであんなに可愛い子とばかり… おかしい話だなぁ。 結局桃子先輩との間で戻らなかった記憶が何か俺を不完全燃焼させていて、未だに校内をふらついていた。 すれ違う生徒も少しずつ減っていって、仕舞いには歩いているのは俺くらい。 たまにすれ違うのは参考書を抱えた先輩くらいだった。 そろそろ部活も終わるし、学校も閉まる頃か。帰らなきゃな。 とりあえず教室に鞄を取りに行くかな。でももう一か所くらいどこかに行ける気も… 1.まだ校内をふらつく。 2.いい加減外に出よう。 3.クラスには誰か残ってるかな… …いや。 まだ俺はこの校舎に思い出がある気がするな。 俺はとりあえず教室から鞄を取り、中等部の校舎へとやってきた。 ついこの間まで俺もここで勉強してたんだもんな。何か思い出してもいいはずだ。 ふらふらと彷徨うように、何かを確かめるように。 きっと歩いたことのある廊下を一人で歩いていた。 もう下校時刻をとっくにすぎてるからか、中等部はやけに静かだ。 外から高等部の部活の声が聞こえてくる。 俺は帰宅部だったらしいから部活とは無縁だったはずなのに、なぜかその声が懐かしかった。 …やっぱり中等部では何か思い出せそうな気がする。 根拠はないけど。 すると、突然大きな音がどっかの教室からか聞こえてきた。 静まり返った校舎にバカでかいその音。びっくりしたー、心臓に悪い。 今日は心臓に悪いことづくしだな。 …でも。俺の残っていたいたずら心が騒ぐ。 なんか気になる。どこから今の音は聞こえてきたんだろう? 1.…上だな。調理室かな? 2.三年生の教室の方からしなかったか? 3.何かが爆発するみたいな音だったよな、理科室とか? 今の音、何かが燃えるような音だった気がする。 それに上の方から何か焦げ臭いにおいもするし…火事だったらまずいよな。 火を使う場所といったら調理室しか思いつかなくて、一つ上の階にあるその場所を目指す。 階段を上りきると、つんと鼻につく焦げ臭い匂い。 …これって、何かを焦がした匂い? 俺の脳内には真っ黒焦げになった魚の絵が浮かんでいた。 まさにそんな感じの匂い。いったい学校で何をやってるんだろうか。 たどり着いた調理室の扉を勢いよく開けると、充満した煙に目が痛くなった。 それに、魚ではない甘ったるい匂いが調理室を占拠している。 …これ、お菓子の匂いだ。 うっすらと舞っている煙の中を奥に進むと、誰かが俯いてぺたんと床に座っているみたいだ。 真っ白い肌にふわふわとした薄茶色の髪。何より目を引く自己主張の強い胸と西洋風の顔立ち。 うっわ…本当に中学生かよ? 明らかに目の前にいる子は俺と同い年か年上に見えるような容姿をしていた。 「あの…どうしたの?」 そうっと、あんまり刺激しないように声をかける。 さっきの桃子先輩とは違ったドキドキが俺を支配している。 「…クッキー」 「え?」 「何回作っても成功しないんだもん。ジミーにあげたいのに、元気になってって渡したいのに…」 ぼそぼそと独り言のように女の子は話しつづける。 ちょっと泣いてるみたいな声を出してる。 …ジミーっていうことはこの子も俺と関わりがあるんだな。 特徴のある語尾。なぜかそれに胸が痛んだ。 「って…え?」 「…はい?」 「じ、ジミー!?」 「え?う、うん」 聞き覚えがある声だったからなのか、顔をあげたその子は俺の顔をまっすぐに見つめると目を丸くした。 そしてばっと立ち上がると…勢い任せに抱きついてくるし! 俺、こんなのばっかりじゃ… 「ジミー!本物だゆ!ねぇ、大丈夫?もうどこも痛くない?りぃ、ずっとじみーのこと心配してて…」 ちょっとずつ上ずる声。泣くかな。泣きそうなのかな。 記憶にない女の子なのに、なぜかこの子がこんな弱い表情をしていると辛くなる。 …どうしよう。 「会いたかったよぉ…じみー…」 ほら、やっぱり泣いてる。 1.…この顔、何か思い出せそう。確か菅谷… 2.だめだ思い出せない。素直に記憶がないことを言おう。 3.もう知ったかぶりしかないだろ、この状況。 だめだ。 何回考えても、頭の中をぐるぐるとかき回してみてもこの子の名前すら出てこない。 でもその現実をこの子に言うかどうかは考えさせられるところだ。 だってこの子はこんなに俺なんかのために泣いている。 「じみー、こんな会えないの初めてで…もう、会えないかと思ったもん」 ガラスみたいにキラキラ光った大きな目が、とても近いところで俺だけのために笑っている。 頭はずきずきと痛い。 俺はこの子を知ってるのに、思いだすことができなかった。 「ねぇ、見てよジミー。りぃね、ジミーのためにずっとクッキー焼いてたんだ」 ぴったりとくっついていたと思えばぱっと離れて俺の手を握って、少し焦げたクッキーを見せてくる。 表情が豊かな子だ。今は照れたように、はにかんだ笑顔。 この笑顔には嘘がなくて。本当に俺のことを好きでいてくれている、そんな笑顔だった。 だから、思う。正直に言おうって。 「ねぇ…あの、落ち着いて聞いて?」 「ん?なんだゆ」 「俺…実はさ、今ちょっと記憶喪失気味で…」 「…え?」 「キミの名前すら思い出せないんだ。本当に、ごめん」 申し訳ないと頭を下げる俺に、やっぱりこの子は喜怒哀楽のしっかりした子だ。 さっきまで明るかった表情が、驚いたものから見る見るうちにまた泣きそうな表情に戻る それは最初に彼女を見た時と同じ、落胆した――桃子先輩やちぃが見せたのと同じ、悲しそうな表情だった ただ、違う部分といえばその表情の素直さ。 大人びた容姿とは裏腹に、この子は悲しいよって気持ちを俺に直接訴えてきた。 「…ねぇ、ジミー。そんなの嘘でしょ?りぃのこと忘れちゃったなんて。冗談だよね?」 「違うんだ、本当に覚えてなくて…」 「ジミーはいつもそうやってりぃのことからかうんだもん」 「ちょっと、」 「…りぃのこと、忘れたなんて言わないでよ。ずっとずっと、好きだったりぃがバカみたいじゃん」 この子は今までの子とは違う。俺と付き合ってるとは言わなかった。 でも、それがなによりこの子の素直な気持ちを伝えてきて、とても息苦しい。 さっきとは違った色の涙がこの子の目から流れる。 この子のことは覚えていない。けど、どうにかしなきゃという気持ちがあった。 俺はいつもこの子に何をしてあげていたんだっけ… 本能の部分で体が動き出す。 1.頭に咄嗟に出てきた名前、「菅谷」と呼んでみる。 2.とりあえず涙を拭かなきゃいけないんじゃないか。 3.…あれ?なんでだろう。俺も泣けてきた… 綺麗な目からこぼれる涙。それはそれで綺麗なんだけど、やけに辛くて苦しかった。 心の中で何かが引っ掛かっててもやもやしてる。でも、思いだせない。 何て声をかけたらいいのかもわからなくて、そんな自分が腹立たしくて仕方がない。 「ねぇ、お願い…泣かないでよ」 「…じみーのせいだもん」 声が掛けられないから、という訳じゃないけど俺の手はすっとこの子の頬に触れていた。 そっと零れ落ちる涙を両手で頬をくるむようにして拭う。 彼女は一瞬くすぐったそうに、そして嬉しそうに目を細めたけどまたすぐに悲しそうなあの表情に戻ってしまった。 「ジミーがりぃを忘れちゃうから。だからりぃは泣いてるんだよ?」 「わかってるよ…」 「わかってない。ジミーはいつも、何もわかってない」 「いつも?」 「どれくらいりぃがジミーのこと好きか。いつもはぐらかしてばっかりで、りぃにちゃんとしたこといってくれない」 ――こんなに好きなのに。 涙を拭っていた俺の手に涙を流して。そう最後に付け加えるように言った彼女のセリフに心が痛んだ。 記憶をなくす前の俺はいったい何をしていたんだろう。 なんでちゃんとしたことをいってやらなかったんだろう。 俺の鼻もつんとして涙が出そうになったが、ここは堪えた。 それよりも、何よりも。 こんなにも純粋に俺を好きでいてくれた彼女に聞きたいことがあった。 1.ねぇ、君の名前を教えて? 2.俺たちはどんな関係だったの? 3.こんな俺のどこがよかったの? 「ほんとさ、それに関しては俺、ごめんしかいえないんだけど」 「…なんか謝ってばっかのジミーってやだ。気持ち悪い」 「俺、あんまり謝んなかったんだ?」 「うん。いつもりぃのこといじめてたゆ」 「うわー…なんか本当にごめん」 「でもそれでもよかったんだもん。りぃ、そうやってジミーと遊んでるのが好きだったから」 昔を懐かしむような、少し大人びた表情をする彼女。 それにちくんと痛む俺の胸。俺、もしかして悔しいのか? この子が俺を見ていてくれないことが、悔しい。そう感じている俺が、昔の俺がどこかにいるようだ。 「ねぇ、聞いてもいい?」 「…うん」 「君はさ、俺、どうしようもないやつだったみたいだけど…どこがよかったの?」 「…え?」 …あ、今鼻で笑った。目の前にいるこの子は、さも当たり前かのように。 俺を一度馬鹿にするように笑ってから、またぴったりと俺に抱きついた。 俺がはがそうとしても離れてくれない。 ぐりぐりと、あまり身長も変わらないのに俺の胸に自分のおでこをくっつけてくる。 「どこがいいとかないよ」 「え?」 「だって、ジミーがジミーだから」 「あの、よくわかんないんだけど…」 「だってジミー、いいとこないし」 「そう…みたいだな」 「でもりぃは、ジミーが好きなの。全部全部、ジミーがまるごと好きなんだもん!」 さっきまで舞っていた煙は俺がドアを開けたせいか、すっかり消えていて。 目の前にはこの子の白い肌がさっきよりもくっきりと見えるようになっていた。 俺が俺だから、好き。そういってくれたのは彼女が初めてな気がする。 心があったかくなって、くすぐったい。 額にうっすらと汗をかいたのはきっと、恥ずかしさからだなと思った。 「ということでジミー。りぃの気持ち、届いた?」 「…うん。しっかりと、ね」 「えへへ、ならよかった。ジミー、これから覚悟してね?」 「へ?」 「りぃ、誰にも負けないようにジミーにくっつくから!」 「え?なんでそうなるんだよ!?」 「だってジミー好き好きなんだもーん」 そのまま俺を押し倒す勢いで抱きついてきたこの子を俺は自然に支えていた。 きっと、こういう関係だったんだよな。彼女とは。 きっと本音を聞いたのは初めてだ。前からちゃんと聞いてやればよかったのに、俺。 でも今はちゃんと受け止めてあげられるよ。 「ねぇ、最後にさ。君の名前を教えてよ」 「今さらなんだ」 「だから、ごめんってば。覚えてないんだから仕方ないだろ?」 「もうしょうがないな…菅谷梨沙子!将来の自分の彼女の名前くらいしっかり覚えてよね!」 夕日をバックに、自分で言って照れたように笑う菅谷。 俺に真っ直ぐな気持ちをぶつけてくる彼女に、記憶をなくしてから初めてとも言える安心感を覚えた。 これからはこの笑顔を支えに、この笑顔を支えていくよ。 「ジミー、ラーメン食べに行くゆー」 「えー…もしかしてみそか?」 「なんでわかったの?記憶、ないはずなのに…」 全部を思い出すその日まで。また、新しい思い出を菅谷と作っていく。